大山崎町重要文化財ネットワーク
大山崎町には現在、14件の重要文化財(国宝1件含む)があり、所在地は大山崎町字大山崎に集中しています。最も桂川に近い離宮八幡宮から天王山麓の宝積寺までおよそ500m足らずの距離で、天王山山頂近くの自玉手祭来酒解神社を除く5カ所は徒歩20分ほどの位置関係です。
このような立地は大山崎町の歴史的・地理的環境と深く関わり形成されたもので、現在も当地を訪れる人たちにとっては1日で廻ることができるエリアとして親しまれています。
しかしこれまで、このきわめて近接する立地関係にある重要文化財所有者・管理者が、日常的に文化財の維持管理について語り合う機会がほとんどありませんでした。全国的には「全国国宝重要文化財所有者連盟」があり、京都には「京都府文化財所有者等連絡協議会」がありますが、地元の所有者等が緊密に交流できる会はほとんど無いといえます。
そこで、このたび「大山崎町重要文化財ネットワーク」を設立し、大山崎町所在の文化財が置かれる環境をよりよくしていく取り組みを進めようと考えました。
目的
- 貴重な文化財を受け継ぎ、日々の管理を担う会員が必要な情報を得、それを共有し、活用すること。
- 文化財を維持管理するにあたって生じる種々な課題に、的確に取り組むための協議、相談、懇談の場を作ること。
- 会員相互が連携、協力して大山崎町の文化遺産を広く社会にむけ発信し、その真の価値を周知すること。
上記の目的を達成するために、文化財・文化遺産の保護と普及に関わる諸団体や個人との交流、研修を行なうとともに、会員が所蔵する文化財の特別公開や見学会、講演会等の啓発事業を企画・実施します。
会の運営にあたりまして、 皆さまの温かいご支援、ご協力を何卒よろしくお願い申し上げます。
文化財一覧
離宮八幡宮
貞観元年(859)、清和天皇が国家鎮護のために八幡神を京の近傍に移座するという勅命を発し豊前国宇佐八幡宮(現在の大分県宇佐市)より当地に遷座されたことを由来とする。嵯峨天皇の河陽離宮の故跡にあることから離宮八幡宮と呼ばれるようになった。祭神は、応神天皇、酒解大神、比売三神。他境内には多数の摂社、末社が祀られる。
平安時代、当社神官が神勅をうけて荏胡麻油の搾油機「長木」を作った。中世になると離宮八幡宮油神人は京都をはじめ各地に進出し、大山崎は朝廷や幕府から油販売の優先権を認められる裕福な自治都市となった。現在も「油祖離宮八幡宮」は全国の油商の篤い崇敬をあつめ、4月初めの「日使頭祭」には製油業者をはじめ崇敬者が参集する。
- 『大山崎離宮八幡宮文書』24巻、1冊、1鋪、52通 重要文化財(指定日1981/6/9)
離宮八幡宮に伝来した文書で、総数三百七十六点を存している。この文書は、中世に離宮八幡に属して、石清水八幡宮内殿の灯油納入の課役等を奉仕していた大山崎神人が、神事奉仕を背景に油座の特権を得て、荏胡麻の仕入れ、製造販売権を独占して活躍した歴史を伝え、中世商業座の姿を具体的に示している。なかでも、貞応元年(一二二二)十二月十七日六波羅下知状は、大山崎神人の美濃国不破関々料を免除したもので、油座の活動を示す比較的早い史料である。(文化庁発行、国指定文化財等データベース)
- 離宮八幡宮惣門(南門)大山崎町指定文化財(指定日1988/11/1)
- 離宮八幡宮東門大山崎町指定文化財(指定日1988/11/1)
離宮八幡宮の木造社殿の中でこれら二棟が幕末の兵火を逃れた。徳川家光による寛永の造営時の遺構であるが元禄期の修復後の姿と考えられている。江戸時代の遺構としてはこの他に宝塔の亀腹礎石、石灯篭、石鳥居が現存する。
- 離宮八幡宮本殿国登録有形文化財(指定日2013/12/24)
- 離宮八幡宮拝殿国登録有形文化財(指定日2013/12/24)
- 離宮八幡宮高天宮神社国登録有形文化財(指定日2013/12/24)
- 離宮八幡宮中門国登録有形文化財(指定日2013/12/24)
- 離宮八幡宮手水所国登録有形文化財(指定日2013/12/24)
- 離宮八幡宮透塀国登録有形文化財(指定日2013/12/24)
禁門の変の余波で社殿はことごとく焼け落ちた。その後、明治初期の鉄道敷設により神社境内地が削減され、本殿等の建替を余儀なくされた。現在の景観になったのは昭和4年頃のことである。設計者は京都府技手、東金五郎。平成18年から実施された京都府近代和風建築総合調査によって、中世の技法、細部を正確に引用した復古的社寺建築の到達点を示すものとして評価され、平成25年に国の登録有形文化財となった。
自玉手祭来酒解神社
天王山の山頂直下に所在する。大山崎町字大山崎区の地主神である。近代以前は天神八王子社と呼ばれ、祭神は牛頭天王と八王子であった。天王山の名称は当社からとられたもの。明治初期の廃仏毀釈により牛頭天王の称号が廃され、延喜式内社の自玉手祭来酒解神社となった。現在の祭神は大山祇神、素戔嗚尊。春の例祭(現在は5月4日)には、隔年で神輿巡行が行われる。
- 自玉手祭来酒解神社神輿庫重要文化財(指定日1921/4/30)
屋根切妻造本瓦葺き、板倉造り。様式的に鎌倉時代後期とされるが、年輪年代法による調査で鎌倉時代初期の部材が確認された。国内に現存する板倉形式の建造物としては正倉院正倉中倉に次いで二番目に古い。室内には旧い神輿が二基保管されている。
- 自玉手祭来酒解神社本殿 国登録有形文化財(登録日2010/5/20)
五間社流造の本殿に覆屋がかかる。屋根は檜皮葺きの上に銅板を被せている。 江戸時代後期文政三年(1820)の棟札が遺る。その7年前に火災により焼失した本殿を同じ場所に再建したものである。
妙喜庵
臨済宗東福寺を本山とする禅宗寺院で創建は室町時代明応年間(1492~1501年)と伝わる。もとは隣接する地蔵寺の塔頭である。
- 妙喜庵茶室〔待庵〕国宝(指定日1951/6/9)
屋根は切妻造、こけら葺。茶室は床を備えた二畳敷。元は千利休の山崎屋敷内にあったものを利休と交流のあった妙喜庵の住職、功叔和尚に譲られたという説が最も有力。全国で国宝に指定されている茶室は三件(待庵、如庵、大徳寺龍光院書院密庵)であるが、その中で千利休作と信じうる唯一の遺構とされる。
- 妙喜庵書院(本堂)重要文化財(指定日1903/4/15)
屋根は切妻造、こけら葺。南面一間通り広縁、その奥、広縁に沿って東に十二畳の上座の間、西に六畳の次の間を配する。この範囲が重要文化財指定区域。
室町時代末の建立と推定される。妙心寺の霊雲殿の書院と類似するが、霊雲院書院より建築年代は古い。現在は本堂となっているが書院造の建物で山崎宗鑑の旧居かともいわれる。柱・長押の木割・両室境の竹の節欄間の形式等に書院造の初期の特徴をもつ。
- 板絵著色老梅に尾長鳥図・松に鶴図 京都府暫定登録文化財(登録日2017/9/29)
狩野山雪筆。書院東端の板戸に描かれている。
大念寺
浄土宗知恩院の末寺。山号は見佛山、弘治元年(1555)、知恩院第二十七世徳誉光然が離宮八幡宮筆頭社家、井尻長助の財を受け開基した。後奈良天皇の勅願寺。幕末の兵火により創建以降の堂舎が全焼したため、現在の本堂、鐘楼は明治に再建されたものである。
- 本堂
屋根入母屋造桟瓦葺で南正面に一間の向拝が付く。廃仏毀釈で廃された西観音寺(現在の大阪府島本町にあった)の閻魔堂の部材を転用して明治12年4月に再建された。
- 木造阿弥陀如来立像重要文化財(指定日1942/12/22)
鎌倉時代仁治二年作。木造漆箔寄木造像高約81cm。附指定で像内納入品がある。その中の木製阿弥陀如来種子月輪牒に、後鳥羽上皇の皇子である道覚法親王(第八十代天台座主)及び法然の高弟、西山派の証空の署名がある。また木製未敷蓮華に仁治四年正月卅日比丘蓮教の墨書がある。
阿弥陀如来像は慈覚大師御作と伝わる京都真如堂の木造阿弥陀如来立像と酷似する。証空が真如堂の慈覚大師聖作をうつして造立云々と書き遺しているもので、西山善峰寺往生院で造られ、ついで西山鉢福山浄土院、山崎浄土院(島本)を経て、大念寺の所蔵になった。
宝積寺(宝寺)
真言宗智積院の末寺。奈良時代神亀四年(727)、聖武天皇の祈願所として行基が開創したと伝わる。町内屈指の大寺で、多くの文化財を所蔵する。天正10年(1582)に山崎合戦で勝利した羽柴秀吉が天王山に山崎城を築くが城を「寶寺城」と記す史料があり、寺域を含む山内一帯が山崎城に組み込まれたとみられる。
- 三重塔重要文化財(指定日1921/4/30)
三間三重塔婆、屋根本瓦葺、相輪頂まで総高19.571m。塔前の石灯篭の記銘及び造作から天正12年(1584)頃の建築とみられる。正統的な和様の外観をもつ。細部は桃山時代の様式。心柱は初重天井裏に敷梁を架けた上に載せる。初重に大日如来像が安置されている。
- 本堂京都府登録文化財(登録日1983/4/15)
桁行五間、梁行五間、一重、入母屋造、向拝一間、屋根本瓦葺。
前面一間通りを外陣とし奥の中央三間半を内陣とし周囲を入り側とする密教系近世寺院によく見られる平面形式。天井は格天井である。頭貫木鼻や向拝の蟇股などは桃山時代の様式で豊臣氏による慶長期の建立とされる。短期間での造営と思われ、材もまちまち。柱はヒノキ、ケヤキ、マツ、クリが混用されている。堂内では節分会、鬼くすべ、冬至祭などの法会がとりおこなわれる。
- 仁王門京都府登録文化財(登録日1983/4/15)
三間一戸八脚門、切妻造、本瓦葺。中央間を戸口とし桟を打ちつけただけの簡素な戸板を用いる。左右の脇は土壁で前面に金剛力士立像を安置する。頭貫木鼻や向拝の蟇股などは桃山時代の様式で豊臣氏による慶長期の建立とされる。
- 石造九重塔大山崎町指定文化財(指定日1988/11/1)
鎌倉時代、仁治2年(1241)10月造立。
屋根部・軸部が別石造の九重層塔。初重軸部に顕教四仏(阿弥陀・弥勒・薬師・釈迦)が浮彫されている。各軸部には四仏の種子を陰刻している。相輪は後補。倒壊のおそれがあるほど傾斜していたが平成27年(2015)の解体修理で造立時の姿に復元された。三層軸部東面に造立年などの記銘が刻まれている。
- 木造十一面観音立像重要文化財(指定日1939/9/8)
宝積寺本尊。木造、寄木造、漆箔、彫眼。
鎌倉時代、天福元年(1233)造立。京都院派の大仏師院範および院雲の作。像内の納入品調査により造仏年と仏師が判明した。「山崎架橋図」(現和泉市久保惣記念館蔵)の詞書によると貞観元年(1232)に寺が炎上し本尊も焼失したようで、現在の本尊は翌年に復興されたものである。
- 木造毘沙門天立像大山崎町指定文化財(指定日1988/11/1)
京都府暫定登録文化財(登録日2017/9/29)
木造(ヒノキ)、寄木造、彩色、玉眼嵌入。鎌倉時代作。江戸時代には本堂脇の毘沙門堂の本尊であったと推察される。
- 木造不動明王立像京都府暫定登録文化財(登録日2017/9/29)
木造、寄木造、彩色、玉眼嵌入。毘沙門天像と同時期の作。ともに本尊の脇侍である。現在は不動堂に安置され一般公開はしていない。
- 木造慈恵大師坐像京都府指定文化財(指定日2004/3/19)
木造(ヒノキ)、寄木造、彩色、玉眼嵌入。鎌倉時代作。像内の調査により慶長11年8月に大仏師康正とその猶子康英が、願主豊臣秀頼の命によって市正(片桐且元)が奉行となって修理したことが判明した。康正の記録によると「山崎宝寺行基・弘法・本尊観音・仁王等修復」とあり、康正の手により他の宝積寺諸像の修復も同時期に行われたことがうかがえる。
- 木造行基菩薩像京都府暫定登録文化財(登録日2019/2/1)
木造(ヒノキ)、寄木造、古色、玉眼嵌入。従前、僧形坐像といわれていたもの。寺伝では上記の慈恵大師像が行基像といわれていた。
- 金剛力士立像(阿形、吽形)重要文化財(指定日1942/12/22)
木造、寄木造、彩色、彫眼。鎌倉時代作、吽形の右足に応永28年(1421)の修理銘がある。
《宝積寺五冥官群像》鎌倉時代作、木造(ヒノキ)、寄木造、彩色、玉眼嵌入。
明治初年まで、現大阪府三島郡島本町山崎に所在した西観音寺の閻魔堂に安置されていた。西観音寺が廃仏毀釈により廃され、閻魔堂も取り壊され、冥官像
は路傍に放置されていたという。宝積寺の住職がそれを引き取り客仏として安置した。13世紀中葉の特色を持ち鎌倉時代冥官像の代表的な作品として名高い。
- 閻魔王坐像重要文化財(指定日1939/9/8)
- 木造司禄・司命坐像重要文化財(指定日1939/9/8)
- 木造倶生神坐像重要文化財(指定日1901/8/2)
- 木造闇黒童子坐像
聴竹居
京都帝国大学教授、藤井厚二の自邸として昭和3年(1928)に建てられた。藤井は大正2年(1913)に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業後、合名会社竹中工務店で設計にたずさわった後、同9年に京都帝国大学工学部講師となる。それを機に大山崎に移り住み、日本の住宅の改良に関する研究を進めつつ当地で自邸を繰り返し設計、建築して試行を重ねた。そして自身の理論に基づく住宅の完成形として第五回住宅である「聴竹居」を完成させた。施工は大工、酒徳金之助。本屋・閑室・茶室の三棟が敷地内に所在する。
- 本屋重要文化財(指定日2017/7/29)
木造、平屋、屋根鉄板葺一部桟瓦葺(藤焼きの施釉瓦)、導気口付
建築面積173.20㎡。昭和3年(1928)建築。
附家具4点(客室机1、椅子2、食事室机1)
- 閑室重要文化財(指定日2017/7/29)
木造、平屋、屋根銅板葺一部桟瓦葺(藤焼きの施釉瓦)、建築面積45.90㎡
昭和3年(1928)建築。
附家具6点(下段の間机1、椅子5)
- 茶室重要文化財(指定日2017/7/29)
木造、平屋、屋根銅板葺一部桟瓦葺(藤焼きの施釉瓦)、導気口付
建築面積32.68㎡。昭和8年(1933)頃の建築。
- 山林3706.81㎡
石段3所、池、水路を含む。